Everlasting   

  


 セリノスが鷺の民の、そして鳥翼族すべての故郷となってから一年。
 昨年は慌しい日常の中でいつの間にか過ぎた春が、今年は少しだけのんびりと訪れた。

「おはようございます、ネサラ様。今日はいいお天気ですよ」
「……そうみたいだな」

 ご機嫌なシーカーが分厚いカーテンと鎧戸を開けると、爽やかな日差しや風といっしょに賑やかな小鳥や雛たちの声が飛び込んでくる。
 ……昨夜も遅かったからな。遅くなった朝飯を食わせようと俺を起こしにかかるシーカーの手に逆らわずに寝台を降りると、俺は大きな窓の外一杯に広がった新緑に目を細めてゆっくりと伸びをした。

「さあさあ、ネサラ様はこちらでお着替えとご朝食を! 今朝は鷹の子たちがネサラ様にと持ってきた果物つきですよ」
「鷹の子? ……あぁ、あいつらか。それで、真面目にやってるのか?」
「さあ、それは……。元気なのはいいんですが、鷹の子はあまり机に向かうのは得意ではない子が多いですからねえ」

 ワゴンで運ばれてきた洗面用具を使いながら訊いたのは、縁あって俺が字を教えた子どもの話だ。
 単に少ない休憩時間に、お気に入りの木陰で本を読んでるところを見つかって読んでくれとせがまれたからなんだがね。
 ベオクでもラグズでも、読み書きはできた方が絶対に良い。そう思って教育するよう薦めてるんだが、鷹の民にはなかなか浸透しないのが悩みの種だった。
 大体、鷹の民にとってガキってのは元気が一番で、机にかじりつく暇があったら野ねずみの一匹でも自力で狩れるようになれってのがあるからな。
 それも間違いじゃないが、鷹の子だって狩りが得意なヤツばかりじゃない。腕っ節だけで頭は空っぽなんて、平和になって土木作業が落ち着いた後はどう食って行くんだ?
 今は鳥翼の民ならではの特急運送で体力自慢にそれなりの需要があるとはいえ、ベオクの国に仕事で出入りする以上、脳まで筋肉じゃ困る。

「ネサラ様、ご予定では今日と明日はお休みになっておりますが、本日はお部屋でゆっくりなさいますか? もしそのようでしたら寝具のお取替えの時間だけ頂戴したいのですが」
「そうだな。………いや、視察に行きたいところがある」
「お仕事はいけませんよ! リュシオン様にも、リアーネ様にもきつく申し付かっておりますから!」
「仕事ってほどのことじゃない。それより、おまえも俺に構ってないでやることがあるだろう?」
「仰せつかった仕事はきちんと終えております。ですが、このお役目だけは譲れませんから!」

 いつもの黒い上着を着た背中で髪を結ぶシーカーは相変わらずうるさい。
 まったく、ニアルチと言いシーカーと言い、どれだけ仕事を言い渡しても時間をこじ開けて俺の世話をしに来る根性は見上げたものだが、少しはそのがんばりを自分のプライベートを充実させることに使ってはくれないもんかね?
 まあ、いくら言ったって「俺の世話をするのが楽しみだ」と食い下がられるだけなのはもうわかっちゃいるが。
 それから俺はあれこれ給仕したがるシーカーをなんとか追い出してささやかな朝食を終えて、昨夜書き起こした草案の見直しに掛かった。
 ティバーンのヤツは俺が持って行った書類はろくに目も通さずにサインしやがるからな。俺がしくじったら目も当てられない。
 だが、全てに目を通し終わる前にまた部屋の外が賑やかになって、今度はニアルチとうるさ型の鴉の女官がずかずかと入ってきた。

「ほらほら、鴉王さま! 少しはお外にも出られませ! せっかくのいい天気ですのにカビが生えてしまいますよ!」
「そうですぞ、ぼっちゃま! たまのお休みなのですから、少しは健康に気を遣ってですな……」

 あぁまったく、くどくどと年寄りは話が長い。
 ニアルチだけでも面倒だってのに、いっしょに現れた女官は鴉には珍しい肝っ玉母さんだ。
 この二人に両脇からつつかれながら書類を読む気力はないし、俺はおとなしく窓から退散した。
 こんな日差しが眩しい時間からふらふらするなんて、どうも落ち着かないんだが……しょうがないな。
 見渡す限り鮮やかな若葉の色の中に浮かぶ小ぶりな白い王宮を見下ろしながら、俺は穏やかな風を翼に受けて適当に見回りを始めた。
 ただ浮かんでるだけでもあちこちから視線を向けられるのはいいんだが、俺が手持ち無沙汰にしてるとあれこれいらん気を遣う連中が多いから仕方がないんだ。
 幼い鷹の雛の兄弟がせっせと木の実を摘む姿や、もう少し大きな子たちが集まって読み書きを習う教室、観光地予定の一角で道の舗装工事をしている鷹と鴉の若衆の様子を見て、書類仕事の最前線である王宮一階奥の事務室、通称「タコ部屋」も覗く。

「ネ、ネサラ様ッ!」
「鴉王様、おれたち、サボってませんよ!?」
「誰もそんなこと言ってない。気にせず飲んでろ」

 丁度休憩時間だったんだな。仕分けした書類の山をかごに入れてお茶を飲んでいた鴉二人がバネ式人形のように立ち上がるが、俺は手で二人を制して埃っぽい部屋の中を見回した。
 奥で作業をしていた鷹の三人もいきなり手を速めた。

「慌てなくて良いから確実にやれ。なにか困ったことや、わからないことはないか?」
「はい、あの…大丈夫です!」
「自分はクリミアのオマから運ぶ農作物と、ガリアの鉱物の運搬についてちょっと……。後から書面に書き起こしてお渡ししたいと思っています」
「そうか。わかった。覚えておく。そっちの三人は?」

 声を掛けたとたん、鷹の三人が大げさに肩を揺らして顔を見合わせていっせいに首を横に振った。なんだ? べつに俺は脅してないよな?
 ……まあいいか。俺がいて緊張させるならとっとと退散するとしよう。
 そう思ってびくついていたわりには名残惜しそうにする連中に片手を上げてタコ部屋を出ると、続いて俺は台所にも顔を出した。キルヴァス王時代は「王が来るなんてとんでもない!」と近づけなかった場所だが、今は気楽なもんだ。嫌がられるのは今も同じだが、セリノスの外交官としてベオクの身分ある客人をもてなす立場となった今、料理のできばえがいっそう気になる。
 なにより、貧しくて食材の調達にも苦労したキルヴァス時代とは違い、今は豊かで逆に選べるものが多すぎて戸惑ってる厨房の様子がよく伝わってきてるからな。

「調子はどうだ?」
「わッ、ネ、ネサラ様!?」
「ええー、どうなすったんですかッ?」

 ここにも鷹の下働きが入ったんだな。
 鷹にしては細い二人がちまちまと小さい芋を洗う背中から声を掛けると、勢いよく立ち上がった拍子に二人の膝から小さな芋が満載だったかごが転がり落ちた。

「あああ、す、すみません!!」
「おれたちが拾いますよ! ネサラ様、手が汚れちまいますから!!」
「俺のせいだろ。驚かせるつもりはなかったんだが、すまなかったな」

 慌てる二人の制止を気にせずジャガイモを拾うと、最後に奥から出てきた鴉の料理長が俺の姿を見て、水の入った桶と手ぬぐいを掴んでばたばたと飛んでくる。
 その過保護加減がなんだかおかしくて笑いそうになったが、笑ってはますます恐縮させちまうからな。神妙な顔をして手を洗うと、俺はすぐに台所を後にした。
 やれやれ、これじゃなんのために行ったかわからん。なにか不自由はないか直接訊きたかったんだが、後から人を寄越した方がよさそうだな。
 さて、じゃあ次はどこに顔を出すか……。
 待てよ。確かこの先に洗濯場がなかったか? そう言えば、洗濯場は見たこともない。行ってみるか。
 俺を見つけて驚いて挨拶を寄越すランプ磨きを横目に応えながら考えていると、ふと聞き慣れた羽音が耳を打った。

「よお、こんなところを散歩かよ?」
「……あんたはどうなんだ?」

 ばさり、と大きな風を起こして窓から俺の前に降り立ったのは、セリノスの鳥翼王、ティバーンだ。
 また絡みに来やがって。休みの日はちゃんと満喫してる。今は別に根をつめて働いてるわけじゃなし、放っといてもらいたいね。
 言い尽くした文句を思い浮かべながら黙って脇を通り過ぎようとしたが、やっぱりな。がしっとでかくて分厚い手に肩を掴まれる。

「俺も散歩だぜ。どうだ? いっしょに行かねえか?」
「どこにだ? 暇を潰したいなら他所を当たれ」
「ほう? そんなことを言っていいのか?」

 ティバーンの手を払って歩き去ろうとしたんだが、にやりと笑ってごつい顎でしゃくられた先に、布巾とランプを抱きしめたまま怖いものを見るように震えるランプ磨きの若い鴉がいた。
 ………まだいたのか。

「べつにケンカしてるわけじゃない。これはいつもの言い合いだ。気にするな」
「そうそう。こんな口の叩き方ばっかしやがるけど、おまえらの王サマはそりゃもう俺のことが好きで好きで――あだッ!!」
「王がなにかほざいてるが、きっとお疲れなんだ。最近書類仕事がまた増えたからな。俺たち鳥翼族が夜作業するのは本当に疲れる。おまえはその疲れを少しでもましにしてさしあげるために、通路だけじゃなく全てのランプをピカピカに磨くんだ。わかるな?」

 だらしない顔でなにか言い出したティバーンの足の甲を踵で思い切り踏みつけると、俺はこくこくと無言で頷く若い鴉の肩を叩いて「さっさと行け」と促した。
 油断したな。普段はこんなことがないように気をつけてるつもりなんだが。

「おお、痛ぇ。おまえ、本っ当に容赦ねえな!」
「もうなにも我慢するなって言ったのはあんただろ」
「言ったさ。そりゃあ言ったが、冗談ぐらい言わせろ!」
「冗談に聞こえていたらしない」
「ったく、しょうがねえな」

 そっぽを向いて言い返すと、ティバーンはいつものように腕を組んでまた笑い出した。
 まったく、足を踏まれてへらへら笑える神経がわからない。まあ、そんな性格でもなけりゃ俺を受け入れて新しい国を興そうなんて考えもつかないだろうが。

「それより、ちょっと付き合えよ」
「だから、どこにだ?」
「いいから来い」
「おいッ」

 考える隙もなく腕を掴んで飛ばれて、俺も慌てて羽ばたく。俺が一人で飛んでも目立つのに、ティバーンまでいっしょじゃなおさらだ。
 それでも、民が見てる前で嫌な顔はできないからな。あちこちから飛んでくる好奇の視線になんでもない風を装って隣に並ぶと、それでも俺の手を離さないまましばらくティバーンは飛び続けた。

「あー、ネサラー!」
「よお、ネサラは借りて行くぜ」
「わかったー! あとで返してねー!」

 おい、俺は物か!?
 途中でリアーネの歌声が聞こえたからそこで降りるのかと思ったのに、軽く手を振るだけで通り過ぎる。
 一体、どこへ行く気なんだ?

「ティバーン……」

 さすがにセリノスの森を出たあたりで気になって声をかけたが、ティバーンはなにも言わない。ただ黙って飛ぶだけだ。

「おい、黙ってるなら俺は帰るぞ?」

 我慢できなくなってきつく言うと、しばらくしてティバーンはようやく俺に向き直った。

「本当は、目隠しして連れて行きてえんだがな」
「どこへ?」
「そいつァ行ってのお楽しみだ。せっかくの花の季節だろ。セリノスも見事だが、今はどの国も綺麗なもんだ」
「……デインは少し遅れるだろうけどな」

 デインの春は遅い。俺は先週までデインにいたが、まだ春にはほど遠い灰色の風景が広がっていた。
 田舎は雪で白いし、ネヴァサは木炭ストーブの煙で一日中霧のようなもやがかかっている。広場のかがり火や王城のそばの道につけられたガス灯も霞んで見えたぐらいに。

「あそこは仕方がねえ。けど、その分春の喜びは大きいだろうよ」
「春の直前には雪解けが一気に来てどこもかしこも泥だらけになるって巫女殿が笑っていたけどな。ただその後は、本当に見事だそうだ」

 どんな厳しい土地でも、そこが故郷なら愛しい――。
 きっとそういうことなんだろう。
 キルヴァスは赤茶けた岩と砂ばかりで、春になっても一部を除いて花を見ること自体が稀だった。
 それでも、俺にとっては故郷だ。忌まわしい誓約に縛られて苦しんだ思い出が一番多いはずなのに、今になってふとあの冷たい岩が懐かしいと、夕焼けでなにもかもが赤く染まった荒涼とした風景を見たいと……。
 痛いほど思うことがある。
 そばには花に囲まれて幸せそうに笑うリアーネや、鮮やかな緑の木々を慈しむリュシオンがいるのに。
 優しい風にそよぐ細い木々の枝を目を細めて見下ろしていると、ふと頭に固い手のひらの感触がした。ティバーンだ。

「遠い目をしてんじゃねえ」
「………」
「こんな季節だぜ。おまえもちっとは浮かれやがれ」

 性分なんだから、無理だ。
 そう言うのは簡単だったが、またこの面倒見の良い男は勝手にあれこれ想像しては心配してるんだろうと思ったら言えなかった。
 自分でも不思議だがね。まるで俺がこの男に気を遣ってるようじゃないか?

「あ、おいっ」

 そう思うとなんだか照れくさくなった。
 だからするりとその手をかわしてティバーンの前に出ると、俺は努めていつもの表情に戻って言ったんだ。

「いい加減、どこに行くか教えろ。俺はせっかちなんだ。ちんたら飛ぶのは性に合わない」
「……ほう、言ったな?」
「言ったとも。どうぞ?」

 お先に。
 そう言う代わりに笑って貴族式の礼を取ると、にやりと太い笑みを浮かべたティバーンが春よりも夏の緑に近い光に包まれて大きな鷹になる。遅れないよう、俺も化身した。

「大口叩いたからにはがっかりさせんなよ? ついて来い!」

 言った直後、ティバーンの厚みのある巨大な翼が風を起こして羽ばたく。風に乗るんじゃない。風を捻じ伏せるようなティバーン独特の飛び方だ。
 一瞬で見えなくなりそうなほど離れたティバーンを追って、俺も羽ばたいた。
 風の流れはいい。風を読んでぐんぐん先を行くティバーンを追って飛ぶと、自然に羽根の一本一本まで魔力が満ちてくるのを感じる。
 そうか。……楽しいんだな。俺は。
 鳥なんだから当たり前なのかも知れないが、やっぱり飛ぶことが好きだ。
 鷹のような超高度は飛べないが、それでも雲が近いほどの場所を飛ぶのは楽しいし、いい風に乗れたら気分が良い。
 昔、まだ俺と元老院との付き合いが浅かった頃……。俺が生意気だと言ってこの翼を引きちぎられかけたことがあった。あの時は、ただ純粋に鴉王の地位を失ったらもう後がないから不味い。
 そうとしか思えなかったが、今は、この翼を失わなくて良かった。
 眼下に広がる草原と、そこにゆったりと流れる雲の影を見下ろしながら、心から俺はそう思った。
 だが、そんないい気分も長くは続かなかった。
 風に乗るだけならまだしも、長距離に強い鷹の中でも最強の大鷹の速度について行くにはいろいろと無理をしなけりゃならない。
 もちろん、手加減して飛べなんて言うつもりはないがね。ないが、少しは種族の違いってものを考えてくれぐらいのことは言いたくなってくる。

「よし、この辺りまで来たらあとはすぐだ。化身を解いていいぞ」

 そのまま、どれほど飛んだのか……。日はまだ高い。
 だが、気分はもう一日中飛んでいたぐらいの消耗振りだ。
 ティバーンが化身を解いたのは、ベグニオンとデインの国境沿いにある、この大陸でもっとも高い山の中腹だった。地元の者が「山羊の城」という意味でエルマドーサと呼ぶこの山は、ほとんどが灰色の固い岩に覆われていて、山頂はいつも雲の上に隠れている。
 険しすぎてベオクでは登れる者が一人もいないそうだ。もちろん、俺たち鴉や獣牙族も登れないし、登ろうとも思わない。こんな山の山頂を知ってるのは鷹ぐらいだろうさ。
 名前の通り山羊は多いし雪豹なんかもいるそうだが、わざわざここまで来て狩るってこともないだろうのに、一体なぜここなんだ?

「ん? ああ、そうか。おい、ネサラ。生きてるか?」
「…………なんとか、な」

 どうやらまだ飛ぶらしいな……。
 人型で先に行こうとしたティバーンの腕を掴むと、化身を解いた俺の息がなかなか落ち着かないことにやっと気がついたティバーンが、適当な岩だなに俺を座らせた。
 まだ中腹だと思ったが、どうやら結構な高度なんだな。このあたりはまだ雲が高いからわからなかった。空気が薄い。

「すまねえ、ここは空気が薄いんだな。無理をさせちまった」
「無理、じゃ…ない。……それで?」
「あ?」

 いつまでも整わない息に苦労しながら言うと、ティバーンは俺の頬に手を添えて覗き込む。
 そんなに心配するなら、最初から無茶をさせるなと言いたいね。

「念のため訊くが、あんたが俺に見せたかったってのは、この山か?」

 あちこちの岩棚や岩陰からじろじろとこっちを伺う山羊どもの姿が珍しいと言えば珍しいかも知れないが、それぐらいだ。

「いや、もちろん違うさ。この少し先だ」
「そうか」

 それなら、もう少し飛ばないとな。
 手渡された水筒の水を少し飲んで、俺は岩だなから降りて羽ばたいた。

「ネサラ、少し下がるぜ」
「……このぐらいなら我慢できる」
「莫迦、もう顔色が悪りぃだろ」

 加減もしないで長距離を飛ぶくせに、妙なところで気を遣うティバーンが可笑しくて笑いそうになる。心配そうに伸びた腕をすり抜けて、俺は岩ばかりの山肌を見ながら少し飛んだ。
 山羊たちが慌てて逃げる後姿を眺めて少し高度を落とすと、こめかみから締め付けるように感じていた頭痛が少しましになってくる。
 やれやれ、不便だが体質の違いってのはどうしようもないな。

「ネサラ、こっちだ」

 もう少し先って、どの辺りだ? 冷や汗の浮いた額を押さえて緑の少ない荒地を眺めていたら、ティバーンが俺の腕を掴んでまた飛ぶ。
 なんだ? 山を回りこんでるのか?
 そのまま乾いた岩肌を横目に飛んで、本当に数分もしないうちだった。

「この匂いは……」

 まず最初に感じたのは、匂いだった。
 さっきまでの冷たくて土っぽい風じゃない。
 甘くて柔らかな匂いのする風を感じた。

「よし、ちょっと目を閉じてろ」
「おい、よせっ」
「いいから、そら」

 自分の目で確かめたくなって先を急ごうとしたところで、強引に胸に抱えこまれる。
 まったく、相変わらず勝手な男だな。
 だが、ここで逆らったって労力の無駄だ。口の中で文句を吐き捨てると、俺は分厚い胸元に押し付けられるまま渋々と目を閉じて、おとなしくティバーンに運ばれることにした。
 ……花なのか? 甘い匂いに男っぽいティバーンの体臭が混じって落ち着かないが、仕方がない。
 一体どうするつもりなのかと思ったが、ティバーンに身体を離されたのはそれからすぐだった。

「もういいか?」
「ああ。目を開けてみな」

 どうやらあの山の裏側に回ったようだな。
 いっそう強くなった甘い匂いを感じながら、俺はそっと目を開けてみた。
 吸い込まれそうに青く高い空の下、華奢な枝いっぱいに白や薄紅色の花をつけた木々の群れが眼下に広がっていた。
 よく似ているけど桜じゃないな……。匂いが違う。

「クリミアの桜も見事だが、こっちもなかなかだろう? こっちは見物客がいねえからゆっくり見られるしな」
「……すごいな」
「アマンドの花だ。種も桃みてえな匂いだぜ。このあたりはベオクも来ねえし、いい食料の調達場所になるんじゃないかと思ってな。野生のものだから形はいろいろだが、この分ならきっと味はいいぜ。苦いやつもあるから、それだけ気をつけなけりゃならねえけどな」

 自慢そうに話すティバーンの説明を背中に聞きながら、俺はところどころに雪をかぶりながら平然と花を咲かせる木の中に降りた。
 あの険しい岩山に囲まれているから、ベオクの手が伸びてないんだな。こんな場所をもし見つけたら、絶対に離さないはずだ。
 それにしても谷を渡る風も強いし、雪だって多いこんな場所でこんなに見事に咲けることに驚いた。
 桜は雨と風ですぐに散るのに、頑丈というかなんというか……。

「どうした?」
「こんな場所、よく知っていたな」

 そっと触れた花弁は柔らかい。でも内に秘めた命の力に感心しながら訊くと、ティバーンは笑いながら細い枝を握って俺の肩を抱き寄せて言った。

「戦争が終わってここらへの行き来もしやすくなったからな。あの山の山頂は誰も来ねえから息抜きでたまに来てたんだが、なんとなくこっち側を覗きたくなって飛んだときに見つけたんだ。おまえがキルヴァス王時代なら、いい食料の調達場所にしてやれたろうになあ」

 お人好しが過ぎることをしみじみと言われて、俺は笑うこともできずにただ黙って桜のような、桃のような花を見上げた。
 アマンドはベオクとの取引でも高い値がつく。キルヴァス王時代にここを知っていれば、確かに大きな収穫になっただろう。
 ……それはフェニキスにとっても同じだろうに、当たり前のようにそう言うんだな。

「ネサラ?」

 穏やかな声と視線に気遣いを感じて、俺は小さくかぶりを振った。
 憎まれ口なんか、いくらでも出てくるはずなんだがな。こんな時は特に。
 俺もずいぶん丸くなっちまったもんだ。
 その気持ちが嬉しい、なんて。素直に思った自分に驚く。

「綺麗だな。俺たちだけで見るのはもったいない」
「それなら、もちろんベオクにこの場所がばれねえようにしなきゃならんが……雛どもの初飛びにどうだよ?」
「初めて長距離を飛んで、疲れたところでこの風景か。……悪くないな」
「俺たちなんか、海を越えた先の断崖絶壁しかねえちっこい島だったんだぜ? なんの楽しみもねえ! ここなら陸だ。まだ翼が弱くてくたびれた雛が道中に休める場所が見つかるしな」

 鷺はともかく、そんな雛はたぶん鴉だけだ。
 そう思ったけど口にしなかったティバーンの思いやりをないがしろにはせずに頷くと、俺は濃淡様々な花を眺めてしばらくただじっと風の音を聞いていた。
 桜なら何度も見た。風が吹けば散る儚い花びらは美しかったが、こうして枝を揺さぶられてもしっかり咲いたままの花ってのもいいもんだ。
 そう思っていたら、ふと背中から暑苦しい体温が俺に触れた。
 ほとんど無意識に翼をしまうと、その温もりはすぐに俺の背中を包み込む。胸の前に回ったのは、逞しい腕だった。

「なあ、明日も休みなんだろ?」
「そのつもりだ。……やることはいくらでもあるがね」
「見回りか?」
「いつも報告を受けるだけだからな。こんな時ぐらい自分の目で見て回りたいんだ」

 後ろから訊かれて答えると、今度はくつくつと笑われた。……人がいい気分で花見を楽しんでたのに、なんなんだ、一体。

「あのな、ネサラ。それはやめとけ」
「なぜだ? 中にはわざわざ書類で訊きにくるまでもないようなこともあるだろ」
「それでも、連中は書類にして訊きたいんだとよ」
「練習か? まだ紙だって安くないんだ。練習だったら石版にでも」
「違うって。鴉王に見られながらじゃ、仕事にならねえだろ?」

 ………そういうことか。
 非常に不本意だが、理解した。
 考えてみれば、俺の姿を見た教室の子どもたちは張り切ったが、大工仕事の連中は俺が現れたとたん石材をひっくり返したし、タコ部屋の連中もあの通りだった。
 黙りこんだところで、ティバーンがまた笑う。くそ、なにがおかしいんだ?

「もちろんおまえを嫌ってのことじゃないぜ? おまえの前で失敗したくねえと緊張するんだとよ。粟食ってなんとかしてくれって俺に泣きついてきやがった。ったく、国内の仕事に関しちゃ、おまえの方がよっぽどあいつらの『王』だよな」
「笑い事じゃない。そこはあんたがムカつくところだろう」
「こんなことでいちいち腹なんか立つかよ。まあそんなわけだから、休みの日は休みらしく好きな本を読むなり、リアーネと遊ぶなり、……できりゃ俺と過ごすなり、してもらいてえんだがな?」
「……最後は余計だ」

 最後だけ真面目な声になったティバーンの唇が耳に触れて、俺は落ちかかる前髪をかき上げながら足元に視線を落とした。
 アマンドの木の根元が土と苔、それから薄く雪に覆われている。人が踏み荒らさないからか、どの根も伸びやかで頑丈そうだ。
 ……だから花も丈夫なのかとか。無意識に早まり始めた鼓動をごまかすように考えていたら、またティバーンが俺を連れて飛んだ。
 このアマンドの木々を見渡せるような岩だなへ。
 そこに座ったティバーンの片膝に座らされて、俺は慌てて翼を出して体勢を整えた。

「なんだ、出しちまったのかよ」
「本能だろ。落ちたら死ぬ」
「落としやしねえさ。まあ、おまえの翼は好きだからいいけどな」

 そう言って風切り羽根を撫でた手を払うと、ティバーンはまた笑って俺を抱えなおした。
 遠くで風の唸り声がする。
 眼下にはこんなに綺麗に花が咲いてるのに、飛ばされてきた雪がちらちらと風花になって舞う風景がなんだか不思議だ。
 冷たく冴えていて、こんなに美しいのに、ここで人が生きていくのは難しい。それを思い知るような風景だった。

「……ネサラ」

 寒いはずなんだ。
 でも寒さを感じないのは、俺の身体を包む魔力以上に、この男の体温のせいだろうな。
 どこか自嘲する思いで感じていたら、らしくなく真面目な声で呼ばれた。
 この男にとっては返事がないことも返事の内なんだろうさ。
 黙ったままの俺をもう少しきつく抱いて言葉を続ける。

「今夜、おまえの部屋に行ってもいいか?」
「断る」

 どうしていちいち俺の意思を確認するかね? 否としか答えないのはわかるだろうに。

「行かせろ」
「いやだね」

 それでもくじけない辺りは、本当に呆れるというか、なんというか。
 大体、そんなことになったら……。明日起こしに来るニアルチやシーカーの前で、俺はどんな顔をすればいい?
 そんなこともわからないのかと怒りたくなる。
 だから、じゃないが。
 そうじゃ…ないんだが、俺は言った。
 本当は、もうとっくに心の中で決まっていた返事を。

「俺があんたの部屋を訪ねる」

 いつものじゃれあいだ。
 そのつもりだったろうから、余計に驚いたらしくて息が止まる気配がした。

「今度の晩餐会の予定を話し合う…ついでだからな」

 今さら、「意味をわかってるか?」なんて間抜けなことを訊かれないように先に言うと、てっきり大騒ぎをするかと思ったティバーンはずいぶん間を置いて小さく息をついた。
 なんだ、いやなのか?
 そう訊くのは簡単だった。
 でも訊けなかったのは、ゆっくりと、でも確かな力でティバーンの腕が俺を抱き寄せたからだ。

「……やべえな。おまえより、俺の方がドキドキしてるぜ」
「はン、あんたがそんなタマかよ」
「おまえに関しちゃ、俺は思春期のガキよりずっとウブな自信があるけどな?」
「どんな自信……」

 頑なにアマンドの花を見下ろしたままの俺に苛立ったのか、大きな手に頬を包まれて顔を上げさせられた。
 視界に飛び込んだ嬉しそうな顔ときたら、これが鳥翼王かと思うと俺の方が恥ずかしくて見てられない。
 慌てて視線をそらすと、それでも怒らなかったティバーンが笑って固い親指の腹で俺の唇を撫でる。
 指越しに唇が触れた。なんというか、普通にされるより恥ずかしくて間が持たない。
 そのまま指を抜かれたらどうしたらいいんだと思っていたら、ティバーンの唇はするりと滑って俺の瞼を塞ぐ。それから頭と……。
 最後に額を合わせて、言われた。

「大事にするからな」
「そういうことは女に言え」
「意味が違うさ。おまえも、俺たちの国も、大事にする」

 らしくない静かな言葉なのに、情熱的だった。
 まるで火のようで、聞かされた俺の方が熱くなる。

「俺は知っての通り鈍感だし、おまえの…おまえたち鴉の繊細な部分はどうしてもわかってやれねえ。だからこそ、嫌な思いをさせねえようにいろんなことを知っておきたい。おまえたちから見りゃあ鷹は無神経で乱暴だろうが、そんな気持ちもあるんだ」
「知ってる」

 そんなこと、今さらだ。わざわざ言わなくてもいいのに。

「わかってる。あんたたちが一生懸命俺たちのことを考えてくれてる気持ちは、ちゃんと伝わってる。まだ戸惑って距離の取り方が上手く行かない連中が多いのは事実だが、あんたたちのそんな気持ちがあるから、俺たちは……幸せなんだ」

 俺の一生ぐらいの間は、言ってはいけないことだと思ってたのに、その言葉は驚くほど滑らかに俺の口から出やがった。

「本当か?」
「こんな嘘はつかない。赦されて、こんな風に幸せになるってのはどうも……落ち着かないんだが、ね」
「ネサラ」

 小さく笑うと、枯れた涙は目から落ちずに、雪になった。
 青い空が鈍色に変わって、風花だと思っていた雪がいつの間にか本物の雪になって落ちてきた。
 白い息が流れる。……遠かった風も近づいてきたんだな。

「あぁでも、勘違いはしないでくれ。幸せだなんて思うにはまだ早すぎる。それはちゃんとわかってるんだ」
「莫迦、そんなもんに早いも遅いもあるか」
「あるんだよ」

 それが現実だ。そう付け足して先に飛び立つと、谷でうねった風が雪を巻き込んで俺の身体を包む。

「ネサラ!」

 驚いたティバーンが慌てて寄ろうとしたのを手で制して、「疾風の刃」を使う要領できりもみ状になった風を馴らすと、俺は勢いのある谷風に千切られた花びらと雪を巻き込んだ渦を抜けながら笑った。

「あんたに守られなきゃならんほど俺は弱くない。だから、あんたが行きたい場所に俺を連れて行きな」
「………心配させるなよ。おまえの行きたい場所はねえのか?」
「あんたが行きたい場所がいいんだ。雲の上は無理だけどな?」

 出会った頃には、この男はもう王候補だった。
 世界が狭くて仕方がない――。
 そんな目をしていたことを、覚えてるから。

「行かねえよ。そんなとこはいつでも行ける。おまえとじゃなきゃ意味のねえ場所の方がはるかに多いだろうが。だから、いつか、王の地位を誰かが継いだらだが……いっしょに行こうぜ」
「いいね」

 ベオクの英雄、アイクも旅に出たと手紙が届いた。
 きっとティバーンも同じだ。知らない場所、知らない風景を探しに行く日が来るだろう。
 俺も、その時にはもう「鴉王」じゃないはずだ。そう思ったから、頷いた。
 二人して、下から吹き上げる谷の強烈な風に乗って雲の間近まで飛ばされて慌てて下がって、髪にまとわりつく雪を払って笑う。
 谷の形が入り組んでるからか、風が面白い形に荒れるのが楽しい。
 やっぱり雛の初飛びには向かないかも知れないな。この風に乗るには相当翼を上手く使えなきゃならない。
 大人でも怪我をする者が出そうだ。

「なあネサラ。花の季節はここは俺たちの花見場所にしねえか?」

 飛ぶのが上手いのは俺たちだけじゃない。だからずっと隠すのは無理だろうが。
 そう言ったティバーンに「そうだな」と頷くと、俺はもう一度雪に降られながらのんびりと咲く薄紅色の花々を見渡した。

「夏が楽しみだな。きっと、たくさんの実が取れる。甘扁桃が多けりゃいいんだが」
「きっと多いさ。そんな気がする」

 さて、鳥翼王の勘が当たるかどうかわかるまでは、まだしばらく時間があるな。俺も楽しみだ。
 そのまましばらく、二人そろってめちゃくちゃな角度で荒れる風に乗って遊んでいて気がついたら、雲の端がオレンジがかっていた。急がなけりゃ夜までにセリノスにつけない。
 慌てて化身して飛びながら、俺はやたらご機嫌に鼻歌でも歌ってそうな大鷹の背中を追いかけた。
 きっとこれから先、何度も訪れることになるだろう、目に映る野生のアマンドの花が描く白と薄紅の風景と、青い空と……恐々と岩陰から俺たちを覗き見る山羊たちの姿を思い出しながら。

 ちなみに。
 この日、結局俺たちはセリノスに帰りつくことはできなかった。
 途中で激しい春雷に見舞われたんだ。だからベグニオンの辺境の安宿に泊まる羽目になったのは、俺のせいじゃないぞ。
 ティバーンは「おまえ、わかってて誘っただろう!?」なんて怒ったが、空の機嫌まで責任持てるかよ。
 つまり、今夜の話はなしだ。こんな場所でどうこうするほど、俺も物好きじゃない。

「……ったく、せっかくなんだからいい宿を取りゃここでもやることはやれるだろうによ」
「嫌だね。下品なことを言うな。第一金がもったいない。俺の金は俺が遣い道を決めるし、あんたは財布を持ってないんだ。諦めろ」
「だから、今夜だけ貸してくれたらどんなに法外な利息でも払うって言ってるだろ!」
「嫌だ。たとえ利息が元金の倍でも断る」
「おい、ネサラ〜!」
「肉好きなあんたのためにわざわざ高い夕食を奢ったんだから、諦めろ!」

 俺が立つだけでもぎしりと音を立てる床を踏み鳴らしそうな勢いで食い下がるティバーンにぴしゃりと言うと、俺は薄っぺらいカーテンを引いてさっさと寝台にもぐりこんだ。
 俺だってこんな固くて冷たい寝具で寝るなんて気に入らない。でもだからって個人のわがままで国からもらった給料で贅沢なんかできないだろ。
 多少は…言い訳も含まれてるのは、自分でも認めるが、ね。

「ああ、畜生。この次は絶対に逃がさねえからな。覚悟しておけよ!?」
「はいはい。次があったらな」

 まぁ、当分はないだろうが。
 俺は気まぐれだからな。それに、ベオクと違って俺たちの寿命は長いんだ。焦る必要はない。
 …………大体だな。
 ティバーンは俺の気まぐればかりを責めるが、ティバーンの方こそいらんときには強引なくせに、いざって時には弱気というか、引くばかりというか。それもいけないと思うんだが……そこはどうなんだ?



   ■END■





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